top of page

感染症の歴史Vol.3 ~キプリアヌスの疫病~

k-yuko1

更新日:1月13日



再びローマ帝国を襲った疫病


マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝が亡くなり、五賢帝の時代の「パックス・ロマーナ」が終わったローマ帝国は、国内では軍人皇帝が次々と現れ権力を争い、国外では北方からゲルマン人が、東方からはササン朝ペルシアが侵入するなど「3世紀の危機」といわれる動乱の時期を迎えていました。


さらに西暦251年頃、北アフリカ沿岸の都市カルタゴキリスト教の司教を務めたキプリアヌスが書き記し、現在では「キプリアヌスの疫病」といわれる疫病が再びローマ帝国を襲いました。


アフリカから始まりパンデミックとなったこの疫病の最盛期はローマだけで1日に5,000人が死亡したと推定され、当時のローマ皇帝ホスティリアヌスもこの疫病にかかって命を落としたほか、エジプトアレクサンドリアでは人口の3分の2が死亡したともいわれています。


※パンデミックの定義については「感染症の歴史Vol.2 ~アントニヌスの疫病~」の記事で説明しています。


 

パンデミック発生による現象


キプリアヌスの疫病というパンデミック発生により、次のような現象が起きたそうです。


  1. デマの拡散

    死者の多さや、手足の一部が腐るなどの激しい症状などから、この疫病は世界の終末が間もなく到来する予兆であるとの考えが広まった

  2. 都市部から郊外への感染拡大

    感染者は家族からも見捨てられ市外に放り出され、市中の遺体は放置され、人々は不衛生なローマを離れ田舎に逃げた結果、さらに感染が拡大した

  3. キリスト教徒の献身

    それまで迫害の対象とされてきたキリスト教徒キプリアヌスの説教に従い、身内や信者ではない感染者に対しても看病し、遺体を適切に処理した

  4. 死亡率の低下

    キリスト教徒の奉仕により、キリスト教徒がいる都市の死亡率は、そうでない都市の半分以下だったといわれている


 

キリスト教の台頭


このキプリアヌスの疫病の原因は天然痘やエボラ出血熱など諸説ありますが、いずれにしてもこの疫病は食糧生産とローマ軍にも影響を及ぼし、ローマ帝国の弱体化を招きました。


反面、ローマ帝国から迫害の対象とされていたキリスト教徒が、自らの感染の危険も顧みず感染者を看病したことで、疫病終息後の生存者たちが次々とキリスト教信者になりました。


この出来事が、後の西暦313年ローマ皇帝コンスタンティヌス帝「ミラノ勅令」によってキリスト教が公認されることにつながったといわれており、その後西暦392年、テオドシウス帝キリスト教を国教化します。


現在、世界最大の宗教勢力であるキリスト教ですが、迫害から拡大への転機になったのが疫病の流行である点は興味深いところです。


←前の記事へ                             次の記事へ→

Comments


bottom of page