
仏教公伝
4世紀中ごろから朝鮮半島は百済(くだら)、高句麗(こうくり)、新羅(しらぎ)の三国が勢力を争う三国時代へ突入していました。
倭国(日本)は百済と同盟関係にあり、たびたび軍事援助をしていました。
日本書紀によると西暦538年(552年説もあり)第29代欽明(きんめい)天皇の時代、軍事援助の見返りとして百済の聖明王から仏像や経典が送られ、これが我が国への仏教公伝といわれています。
この時、諸外国と同じく仏教を信仰する蘇我稲目(そがのいなめ)と、日本古来の神々を信仰し仏教に反対する物部尾輿(もののべのおこし)が対立します。
蘇我稲目の娘である堅塩媛(きたしひめ)を妃に持つ欽明天皇は、蘇我稲目の意見を無視することができず、仏教を受け入れる決断をします。
蘇我氏と物部氏の対立と、疫病の流行
天皇の許可を得た蘇我稲目は小墾田の向原にあった自宅を清め、日本で最初の寺(向原寺)として聖明王から贈られた仏像を祀りました。
ところがその後、国内で疫病が流行します。
物部尾輿は「疫病の流行は仏教を信仰しているせいである」と主張し、蘇我稲目の死後欽明天皇もその主張を認めたため、物部尾輿は向原寺を焼き払い、仏像を池へ投げ捨てます。
欽明天皇が崩御し第30代敏達(びだつ)天皇の時代、再び疫病が流行し蘇我稲目の子蘇我馬子(そがのうまこ)も感染しますが、「父の稲目のときに破棄された仏像の祟りである」との占いが出たため、蘇我馬子はこれを天皇に上奏し、再び仏像を祀る許可を得ます。
ところが、それでも疫病は収まらず、物部尾輿の子物部守屋(もののべのもりや)が「疫病の流行は仏教を信仰しているせいである」と再び主張し、敏達天皇もこれを認め仏教の信仰を止めるよう命令します。
物部守屋は父と同じく寺を焼き、仏像を池へ投げ捨て、さらに尼僧を鞭打ちましたが疫病は収まらないどころか、敏達天皇と物部守屋も疫病にかかってしまい、敏達天皇は蘇我馬子に対してのみ仏教の信仰を許可した後、崩御してしまいます。
丁未(ていび)の乱
次に第31代用明(ようめい)天皇が即位しますが2年で崩御し、蘇我氏と物部氏の争いは宗教対立から武力衝突へと発展します。
物部守屋は穴穂部皇子を皇位につけようとしましたが、厩戸皇子(聖徳太子)、泊瀬部皇子(崇峻天皇)などを味方にした蘇我馬子に皇子を殺害され、自身も戦の中で命を落としました。
こうして、仏教に反対していた物部氏は歴史の表舞台から姿を消し、蘇我氏が権力を握り数々の寺院を建立することで仏教が興隆していきます。
仏教と疫病
仏教公伝と共に流行した疫病の原因は不明ですが、疱瘡(天然痘)だったといわれています。
疱瘡(天然痘)の起源は明確には分っていませんがインドが起源であるとも言われ、シルクロードを経由して仏教と共に日本に入ってきた可能性があります。
ただし現在よりもずっと医療が未熟だった時代、身分を問わず感染する未知の疫病に対して人々は宗教にすがることしかできなかったのでしょう。
日本古来の神道を信仰する人々は、「外国の宗教を持ち込んだことに対する、在来の神々の怒りによって疫病が広がった」と考え、仏教を信仰する人々は「仏像を破棄するなど仏教を軽んじるから祟りで疫病が広がった」と考えたとしても不思議ではありません。
しかし、ここでも疫病の流行と新興宗教の台頭が切っても切り離せない関係であることは、興味深いところです。
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