
ローマ帝国を衰退させたパンデミック
ローマ帝国の最盛期、「五賢帝」最後の皇帝であるマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の時代、ローマ帝国は強大な軍事力を背景に広大な領土を得ていました。
当時ローマの衛生状況は下水道や公衆トイレ、公衆浴場などが整備され、他の都市に比べると進んでいたといわれます。
しかし下水道網はローマの全域をカバーしておらず、下水道に接続されている個人宅はほとんどなかったため、公衆トイレもあったものの排泄物は街路に捨てられていました。
また、公衆浴場は殺菌されておらず、健康者と病人が一緒に入浴することもあったため、病気の蔓延を促していました。
そんなローマにおいて西暦165年頃から、東方のアルケサス朝パルティアとの戦争から帰還した兵士が持ち込んだとされる病気が、瞬く間に帝国の全領域に広がりました。
エジプトからシリアに至るまで、エピデミック※が国境を越えて広範囲に同時流行したような状態を「パンデミック」といいますが、このパンデミックにより死亡者は350万人から700万人または1,000万人ともいわれ、ローマ帝国衰退の一因になったとも考えられています。
この疫病により皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスも命を落としたため、「アントニヌスの疫病」といわれています。
※エピデミックの定義については「感染症の歴史Vol.1 ~アテネの疫病~」の記事で説明しています。
三国志のきっかけとなった後漢末期の疫病
ローマでアントニヌスの疫病が大流行していたのとほぼ同時期、中国は後漢末期霊帝の時代で、首都洛陽は当時ローマと並ぶ大都市であると同時に人口過密都市でもあり、ローマと洛陽はシルクロードを通じて交易がありました。
当時の歴史書「後漢書」に登場する「大秦王安敦」はマルクス・アウレリウス・アントニヌスのことを指すとみられています。
この霊帝の時代には何回も大規模な疫病が起こったとの記録があり、ローマで流行した疫病がシルクロードを経由して洛陽にもたらされたと考えられます。
また、この時期に張角を首領とする太平道という宗教組織を中心とした「黄巾の乱」という大規模な反乱が起こります。
繰り返す大規模な疫病に苦しむ人々が太平道に入信していきますが、当時は「集団免疫」という考え方がなかったため、集団免疫により人々が免疫を獲得し感染症が自然に収まっていくタイミングが、張角の奇跡により疫病が収まったものだと勘違いしてもおかしくありません。
この黄巾の乱をきっかけとした混乱により後漢は事実上の統治機能を失い、群雄割拠の三国志時代へと突入していくことになります。
大国の衰退と新たな宗教の台頭
アントニヌスの疫病については当時の医師ガレノスが記録を残していますが、原因は麻疹・天然痘・発疹チフスなど諸説あるようです。
疫病を経験したローマは、その後帝国の衰退が始まり、後にキリスト教を容認するようになります。
また、後漢末期の疫病については、同時期に張仲景(ちょうちゅうけい)という医師が傷寒(発疹チフスの類だといわれています)について記した書物を残していますが、他にも天然痘や麻疹という説もあるなど、原因は不明です。
疫病により太平道が信者を急速に増やしたことで黄巾の乱が起こり、三国志の時代へと突入した結果後漢は滅亡します。
どちらの大国も、ほぼ同時期に疫病が蔓延した結果衰退し、新たな宗教が台頭している点が興味深いところです。
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