
古代日本を襲った疫病
日本での最初の疫病の記録は第10代崇神(すじん)天皇の御世、人口の大半が死亡するほどの疫病が蔓延したと古事記や日本書紀に記述があります。
崇神天皇はこの疫病を自身の不徳が原因であると考え、一心に祈りましたが疫病は収まらず、宮中に祀られていた天照大神(あまてらすおおかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を宮中から出し、別々に神社に祀ることにしました。
それでもまだ疫病は収まらず、事態を憂えた崇神天皇は占いにより解決策を見出そうとしました。
すると倭迹迹日百襲姫命(やまととそひももそひめのみこと)に大物主神(おおものぬしのかみ)が乗り移り、自分を祀るようにと指示を出しました。
言われるまま崇神天皇は大物主神を祀りましたが効果がなく、天皇は身を清め「願わくば夢の中でもよいので、何が原因での災いなのか示して欲しい」と祈りながら床に就きました。
すると夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子(おおたたねこ)という者を探し出して私を祀らせれば、たちどころに国は平穏となる」とお告げをされます。
喜んだ崇神天皇は大田田根子を探し出し、三輪山を御神体、大田田根子を神主として大物主神を祀る大神(おおみわ)神社を建立したところ、疫病は終息したと伝えられています。
日本で最初のパンデミック
崇神天皇朝の疫病は天然痘であるという説があるようですが、原因は分かっていません。
また、崇神天皇の治世を西暦に直すと何年頃になるのかも諸説あるようです。
一説では、崇神天皇の治世は3世紀後半~4世紀前半と言われていますが、その時期はローマ帝国でキプリアヌスの疫病が流行した頃と極めて近く、同時期に中国では晋という国が疫病に襲われ大勢の民衆が亡くなったそうです。
これはキプリアヌスの疫病が中国まで広がり、そこから日本にも広がったパンデミック※である可能性があります。
また別の説では、崇神天皇の治世は2世紀後半~3世紀前半とも言われており、その時期はローマ帝国でアントニヌスの疫病が、そして中国の後漢でも疫病が流行していた時期と重なります。
邪馬台国の卑弥呼が中国の魏に使いを送っていたのもこの時代ですので、やはりローマから中国へ広がった疫病が日本にもたらされパンデミック※が起こっていても、何ら不自然ではありません。
※パンデミックの定義については「感染症の歴史Vol.2 ~アントニヌスの疫病~」の記事で説明しています。
手水舎の設置
古代、人が集まる場所といえば神社でした。
疫病をきっかけとして崇神天皇は神社に手水舎を設置し、手洗いや口をゆすぐことを作法として奨励しました。
食事の前やトイレの後に手を洗う習慣も、この頃にできたと言われています。
国内の衛生管理を強化し、疫病蔓延を抑止しようと尽力された崇神天皇は後に、最初に国土を統治した天皇を意味する「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と呼ばれるようになりました。
崇神天皇が始めた手水の作法が、約二千年も続く作法として現代の日本に伝わっていることに感動を覚えます。
Comments