
「キプリアヌスの疫病」後のローマ帝国
「3世紀の危機」と呼ばれる混乱と「キプリアヌスの疫病」※を経験したローマ帝国では、広大な領土の統治と防衛を行うため、帝国を東西に二分し、東方正帝と西方正帝の二人の皇帝による分割統治を行うようになりました。
その後、「ミラノ勅令」を発布したコンスタンティヌス帝が、後に東ローマ帝国の首都となるコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を建設するなど強大な権力をもって、混乱した帝国を再統一しました。
しかしコンスタンティヌス帝の死後再び帝国は分割され混乱し、キリスト教を国教化したテオドシウス帝により再統一されますが、そのテオドシウス帝の死後、帝国は東ローマ帝国と西ローマ帝国に完全に分かれます。
※キプリアヌスの疫病については「感染症の歴史Vol.3 ~キプリアヌスの疫病~」の記事で説明しています。
東ローマ帝国の夢を砕いた疫病
古代ローマ帝国の復活を夢見ていた東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは、西ローマ帝国領内に建国されたヴァンダル王国や東ゴート王国を征服し、東ローマ帝国の統治圏を大きく広げていました。
しかし西暦542年、首都コンスタンティノープルを疫病が襲います。
疫病はエジプトからパレスチナを経由してコンスタンティノープルまで広がるパンデミック※を引き起こし、歴史家のプロコピオスによると最盛期には1日に5千人から1万人が死亡し、終息までに地中海世界人口の4分の1にも及ぶ人数が死亡したといわれています。
地中海世界の人口減少により「東ローマ帝国によるローマ帝国の再建」というユスティニアヌスの夢は砕かれ、東ローマ帝国は衰退への一途をたどり始めます。
一命はとりとめたもののユスティニアヌス自身も感染したことから、この疫病は「ユスティニアヌスの疫病」と呼ばれています。
※パンデミックの定義については「感染症の歴史Vol.2 ~アントニヌスの疫病~」の記事で説明しています。
歴史上最初のペストによるパンデミック発生
地中海を囲む大帝国であった東ローマ帝国は地中海沿岸から西アジア、さらに中国と東方へ交易を拡大しており、首都コンスタンティノープルは30~40万人の人口を誇り「世界の富の3分の2が集まるところ」とも呼ばれました。
パンデミックが起こった背景として、こうした都市化とグローバル化があります。
ユスティニアヌスの疫病の原因はペストだと推定されていますが、ペストの起源は中央アジアだといわれ、シルクロード交易によって世界中へ拡散したと考えられています。
ペストは、ペスト菌をもつネズミに寄生するノミに吸血されることでヒトに感染しますが、感染力が強く、ヒトの肺に感染すると咳によって容易にヒトからヒトへ感染し、放置するとほぼ100%死亡します。
その後もペストは度々ヨーロッパで大流行しますが、ペスト菌が発見され、ネズミが侵入しにくい家屋を増やすなど公衆衛生上の対策が取られた結果、ペストの流行は徐々に収まっていきます。
当時よりもさらに都市化やグローバル化が進んだ現在、都市を封鎖することにより強制的に感染症の拡大を防ぐという手も有効かもしれませんが、それよりも過去の教訓から学び、各自が公衆衛生上の対策をしっかりと行うことが、感染症の予防において最も重要であるような気がします。
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